1990年2月11日、東京ドームで行われたプロボクシング統一世界ヘビー級タイトルマッチは、5万1600人の大観衆で埋まった。リングサイドにはWBC世界ミニマム級王者の大橋秀行がいた。私が話しかけると、彼は挑発するような口調で言った。「自分も防衛を重ねて、こんな大きな会場で世界戦をやりますから」。
4日前、大橋は隣の後楽園ホールで韓国人王者を倒し、日本の世界挑戦21連続失敗という不名誉な記録に終止符を打って世界王者になったばかり。1年4カ月ぶりの世界王者誕生に超満員3500人の会場は歓喜に沸いたが、試合前の報道記事も観客数も、4日後に防衛戦を控えたマイク・タイソン(米国)の方がずっと大きく、多かった。
とげを含んだ彼の言葉には、来日からタイソンに密着取材していた私への皮肉に加え、同じ世界王者として、タイソンという圧倒的な存在に対する「いつか自分も」という対抗意識が込められていたように思う。
4団体統一世界スーパーバンタム級王者の井上尚弥の次期防衛戦発表会見を取材して、34年前の光景が記憶によみがえった。あの大橋秀行がジムの会長になって育てた“モンスター”が5月6日、タイソンと同じ東京ドームのメインイベントのリングに立つ。
「34年かかりましたね。あの時、会場はすごい雰囲気で、ミニマム級とヘビー級では全然違うんだと感じた。それが自分の育てた選手が東京ドームで……夢を見ている感じですね」。会見後、彼は感慨深げに表情を緩めた。
思えば90年2月は日本ボクシングの大転換期だった。7日に大橋が冬の時代に終止符を打ち、11日に東京ドームでタイソンが敗れた「世紀の大番狂わせ」は平均視聴率38.9%、KO負けの瞬間は51.9%を記録。その前後からジムの練習生が急増し、91年のプロテスト受験者は88年の1.5倍に増えた。
タイソンの世界戦を日本で2度も成功させたことで海外と太いパイプが築かれて世界戦興行数も激増。タイソン戦の前座で全国区デビューした辰吉丈一郎をはじめ人気王者が次々と誕生した。その世界王者がつないできた拳の歴史が、井上という怪物ボクサーを育んだ。34年前は今と太い線でつながっているのだ。
あの日、タイソンのまさかのKO負けを目撃した大橋は、日刊スポーツの観戦記にこう記した。「練習でもうひと頑張りしなければならないところで厳しく言ってくれる人がいなければいけない。タイソンには妥協があった」。
井上もタイソンと同じ勝利を宿命づけられた無敗の統一王者だが、2人には決定的な違いがある。それは井上には父真吾さんが今もトレーナーとして、妥協を許さぬ厳しい目を光らせていることだ。大橋会長も「(挑戦者のルイス・ネリは)パンチ力と怖さは過去一番」と陣営にスキはない。タイソンの敗北から学んだ34年前の教訓も、しっかりと井上に伝承されている。【首藤正徳】(ニッカンスポーツ・コム/スポーツコラム「スポーツ百景」)(敬称略)